熊本⇔関東④:源平争乱と鎌倉幕府/熊本と鎌倉の関係-御霊神社

雑感

神奈川県藤沢市から江ノ島を通り相模湾に面した海岸 を鎌倉へ。

由比ヶ浜(ゆいがはま)手前の極楽寺 で江ノ島電鉄を降りて、どこか懐かしい匂いの坂道を登り抜けて鎌倉御霊神社 へたどり着く。

極楽寺駅


熊本県の御霊神社にゆかりを持つ私が、初めてこの地を訪れたのは三年前であった。鎌倉には御霊神社が十三以上もある事を知り、それ以来、御霊信仰 について興味を深くしていった。

歴史を紐解いていくと、飢饉、疫病、天災、戦(いくさ)…
時代の節々にそれらは繰り返されている。
御霊信仰は、そのようなときに歴史の年表に登場している。

迷いの時代といわれる今、人間の現実社会…
スピリチュアルブームに現されているように思える。

表には裏があり、光があたれば影ができる。
繁栄と衰退、切望と争い、権力と不安、支配と怨み、勇気と懺悔、悲しみと哀しみ…
それらを輪廻転生で繰り返し、真の平和を知るために生まれてきた私たち。
人間が腹から苦しみ葛藤する時、迷い、内観し、気づき、内省し、自分の中の“悪”というものに直面する。
そして良心(仏心)というものが何処からかわきおこり、自らを祓い清めたくなる。それが魂の進化を求める人間というものの本能なのかもしれない。人間って素晴らしい。日本に生まれてありがたい。


鎌倉・江ノ島 七福神 面掛 福禄寿 
御霊神社
御霊神社は其の昔、鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡という平氏 五家があり、これら五家の祖を祀る神社として御霊神社が建てられ、これが御霊神社となり祭神し、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。この権五郎景政公の命日が九月十八日で この例祭日には昔から面賭け行列という珍しい行事があります。これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県特定の文化財です。此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています。…以下引用

画像提供:鎌倉Rさま


御霊神社[鎌倉権五郎神社]由緒

当社の創建は平安時代末期と推定され当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政(かげまさ)公一柱となる。
源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鑑(わづまかがみ)」に御霊神社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である。
祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平ら忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南南地域一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ヶ崎)を開拓した開発の領守でもある。

景政公十六才にて奥州後三年役(1083・永保3年~1087・応徳4年)初陣す。
左目に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を倒し斃し(たおし)陣中に帰り、其の矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛気と高い志は歌舞伎にもなり武士の鑑(かがみ)と永く仰がれている。

神徳●祭神の志の高さ頑固さを慕う青少年の参拝多し又、江戸時代より右史実より眼病平癒、除災の神として祈祷多し
例祭●九月十八日神奈川県指定無形文化財 面掛行列が神興渡御に従う
当日鎌倉市指定文化財鎌倉神楽(湯立て神楽)の奉納あり
末社●石神神社例祭七月二十五日に近い日曜日 御霊の前浜沖の海神に御供(赤飯)を献げ流す「御供流し」の神事あり

神社を後にし空を見上げたら雲がみるみる登って…思わず合掌

御霊神社と神宮、陰陽のコントラスト…
人間の心の状態を思わせる。
遠く離れた地で同じ景色を見るように思える。

熊本県八代妙見宮/漂う気がとてもよく似ています

熊本県八代御霊神社/漂う気がとてもよく似ています

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