














日本書記によると、今から千二百余年前に東側に面す る穴とあるから現在の妙見温泉、を指すと思う。昔は奥に千畳敷もあったという。ここに居を構える熊襲族の大将、川上梟帥(カワカミノタケル・川上武)の石の寝台が完成し、その祝いに熊本、鹿児島、宮崎の南九州にまたがる五十五の部族の主将達が参集し酒盛りが催された。
一方景行天皇(大碓命オオズノミコト)の皇子である十六才の子碓命コオズノミコトが、熊襲が調停に貢ぎ物をしないと征伐の機をうかがって隼人迄遠征していた。
ちょうど部落の女達がお御酌をし、宴たけなわの折、子碓命は女装して宴にまぎれ込み、川上武の前に出た。
酌酔の武は、うつろな目で子碓命を見ると、「今まで見たこともないきれいな女だ、お前と二人で飲もう」と隣席との幕をしめ、二人っきりになった。
子碓命は懐中していた剣を、お酌をするふりをして、川上武の背中をブスリと刺した。
驚愕の武は「そちは何者か」
「われこそは景行天皇の皇子子碓命なるぞ、お前が朝貢しないので征伐に参った」
川上は「あなたは私より強い、子碓命では名が小さい、私の名を取って「日本武尊ヤマトタケルノミコト」として頂きたい」
子碓命は了承された。
その時分、泥酔した弟の、建タテルがフラフラして現れ出た。子碓命はこれを真正面から建の胸をハッタと刺して即死させた。
この悲鳴に隣室の五十五の泥酔した主将達が幕を開き、異様さに仰天、血塗りの剣を持つ女装の少年唯一一人を大勢の強力な大男達が一突きにしようと構えた。
その時、川上武は流血、瀕死の虫の息で制止し、
「こなたは、景行天皇の皇子子碓命だ、朝貢しないと征伐に来られた、決して殺すでないぞ、私の名を献上して、ヤマトタケルノミコト、と命名して頂いた。朝廷まで無事届けてくれ、そして我々は今日限りで解散してくれ」と命じた。
予て、統制力の厳格にして尊敬する首長、川上武の小声の厳命を何の抵抗もなく主命として悲哀の極限の中で守った。
日本武尊を無事朝廷に帰したので、その後蝦夷エミシの征伐等次々に日本国の安泰のために進展されたのである。おそれく現代ならばあの雰囲気では子碓命(日本武尊)は一突にされていたろう。貢物をしないのは、血みどろで開墾した作物を、仮に一万俵の米を、命令の半分五千俵をどうして朝廷まで運ぶかと根の正直な、武は躊躇していた。
外の諸侯たちは、無償の朝貢に対し、僅かな品物を持参して事足りたと記されている。
千二百年後の今日、すきがあれば領土とか権利を略奪し、野蛮な、何万人の人間が血で血を洗い、軍備に明け暮れ不平、不満自分本位で理解なき現代人の世界と、川上武の当時取った処置を比較した場合心ある人々は、悟られると思う。
熊襲族が即座に解散した証拠として、歴史の本を探しても、その後熊襲に関する記事は見当たらない。
熊襲族には盗人がいなかったとも記されている。このことは如何に川上武の統制力が正しかったか、その充実せる実力発揮の結果で、警察を必要としないということであり、とても尋常なことでできることではない。
熊襲の主将達がこのような精神で熊本、鹿児島、宮崎の部落に帰り、子孫に伝えた、功績により、その血を繋いだ南九州の人々は正直でよく働くと現代迄伝えられている所以であろう。
西鹿児島駅より就職列車として特別仕立ての卒業生を、親との決別の涙を以って、東京大阪方面に送り、重宝がられた、ついこの前の事実を考えても、更に南九州より優秀な警官や実業家の多いことなどもうなづけるところである。
このように我々は熊襲の実態を大に教訓とすることこそ必要ではなかろうか。
物で栄えて、心で滅びると言われる現代において、熊襲の物語を善意に解釈し、心の支えとして受け止めてこそ貴族ともいえる熊襲族の霊魂に対する供養への道であり、現代人としての心の糧としたいものである。石原寛一郎
妙見石原荘


